シュタイナー学園の歩み
最初の入学式
新宿区大久保のビルの一室で1年生8名の「東京シュタイナーシューレ」が誕生。「これは未来の12年制シュタイナー学校の芽だ」という思いがありました。
第1七年期 ~はじまり
第1七年期
はじまり
それは、ないものからの出発でした。十分な校地校舎も、学籍も、経済的な基盤も、そして教育経験の積み重ねもない。
シュタイナー教育への関心が、日本の社会で少しずつ層をなしてきた1980年代、教育や芸術を本格的に学ぼうと海外に留学する若者たちが一人、二人…と旅立っていきました。数年後には、帰国した教員を迎えて、東京に週一回の幼児と小学生のクラス、そして大人の勉強会が始まります。数年間の積み重ねを経て、その中から、「担任となる教員に子どもを託し毎日シュタイナー教育の課程を受けさせたい」と決意した一人の親が出ました。そして何回もの真剣な話し合いの後、1年生の一クラスが誕生することになったのです。
8人の子どもたちの入学式の日、小さな始まりであっても、「これは未来の12年制のシュタイナー学校の芽だ」という思いを、つくる者たちは抱きました。
子どもがいて教員がいて、という原点からの出発のその後は、平坦とはほど遠い道のりでしたが、一クラスに一クラスを重ねて少しずつ大きくなっていきました。
最初の入学式
新宿区大久保のビルの一室で1年生8名の「東京シュタイナーシューレ」が誕生。「これは未来の12年制シュタイナー学校の芽だ」という思いがありました。
早稲田移転
1・2年生とクラスが2つになり移転。その後、さらに新宿区落合に第二校舎の部屋を借り、平坦とはほど遠い道のりを少しずつ歩み始めます。
第2七年期 ~小学校段階の教育実践
第2七年期
小学校段階の教育実践
クラス数が増えるにつれて、校舎はビルの一室から三階建の小型ビル、都心から多少離れた三鷹市の一軒家、それから同じく三鷹市の独身寮へと移りました。保護者たちは力を合わせて改装し、内装を整え、建物の内側には教室にふさわしい雰囲気がかもしだされました。しかし、子どもたちが大きく息をつける広さではなく、校庭の代わりに公園などを運動場としていました。
学籍の問題もありました。毎日の授業が、シュタイナー教育のカリキュラムに沿って行われていても、施設要件などを満たさなければ学校とは呼ばれません。
そこで、公立学校や教育委員会と話し合いを重ね、学籍を地域の公立学校に置いて卒業証明書も出していただくようになりました。けれどもこれは、現行制度の中の例外でしかありません。
問題は山積みでしたが、少しずつ教員たちも集まり、1年生から6年生までの教育実践がなされるようになりました。
早稲田移転
1・2年生とクラスが2つになり移転。その後、さらに新宿区落合に第二校舎の部屋を借り、平坦とはほど遠い道のりを少しずつ歩み始めます。
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井の頭移転
1〜6年生がひとつの場所で学べるように三鷹市井の頭の民家へ移転。学籍の問題、経済的課題など困難の中、成長を続けます。
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牟礼移転
より広い場を求め、同市牟礼の旧独身寮へ移転。保護者の手による改装で教室の雰囲気が整えられました。
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9年制へ。NPO法人取得へ
9年制に踏み出すとともに、生徒数が100名を超え、東京都からNPO法人認証を取得。一方で、校舎の狭さと安全性の解決のための新校舎探しが難航。
第3七年期 ~NPO法人から学校法人へ
第3七年期
NPO法人から学校法人へ
誕生から14年目の2001年、9年制に踏み出すことが決まり、子どもの数も100人を越えました。同年に東京都からNPO法人の認証を取得し、初めての法人格を得ました。
しかし、補助金のない経済的な不安定さと学籍の問題はそのまま続き、校舎の狭さと安全性の問題を解決するための新しい校舎探しも難航していました。
そんな私たちの前に学校認可の扉が開かれたのは、内閣府による「構造改革特別区域法」―いわゆる特区を通してでした。特区とは、「ある目的を持った事業を行うために妨げになっている法律制度を、限定された区域で緩和する」ものです。
さっそく、保護者と教員からなる特区チームは、法律の網目をほぐすべく調査をし、提案書を作成しました。まず、「学習指導要領の弾力的運用」の名目で、シュタイナー教育のカリキュラムを行うことが認められました。次に、校地校舎の自己所有用件が緩和されました。
こうして道がひらかれた学校法人化を実現するためのパートナー・自治体を探し、旧藤野町との出会いに恵まれ、町の廃校舎をお借りすることができることになりました。
特区申請の認可と私立学校審議会の認可を得て、「学校法人シュタイナー学園初等部・中等部」が設立されたのは、2004年10月です。 最初の1年生クラスから数えて、17年半の歳月がたっていました。
藤野移転
学校法人シュタイナー学園開校
旧津久井郡藤野町(現・神奈川県相模原市緑区)の名倉小学校廃校舎を借り受けて、特区による学校法人化を実現。小中一貫校の認可を受け、自然豊かな山里で歩みを新たにしました。
第4七年期~12年間一貫のシュタイナー学校認可
第4七年期
12年間一貫のシュタイナー学校認可
藤野で始まった学園の歩みは、慣れない山道を登るようにたどたどしいことも多々ありましたが、地域とその周りからのご協力のおかげで、一歩ずつ前へと進みました。次第に藤野に住む家庭も増え、四季をめぐる山並みの変化に子どもも大人も馴染み、山里・藤野は、学園にとっても、そこに根づいて育つ里になっていきました。
2007年には校舎の南側の土地を得て、2009年夏に新校舎が竣工しました。オイリュトミー室と2教室からなるこの校舎は、学園が建てた初めての建物で、形、色、材質などに教育の理念を体現しようという工夫が表れています。
しかし、この校地校舎をもっても、次の目標である学校法人としての高等部の設置基準を満たすことはできません。教育は一続きであっても、10年生からはNPO法人という制度上の齟齬は残ります。
そこで私たちは、もう一つ、廃校舎を借用しての高等部設置の可能性を探し始めました。いくつもの経緯を経て、初等部・中等部がある名倉から車で10分ほど離れた、旧相模原市立吉野小学校の校舎の可能性が浮かび上がりました。
新しい高等部設置を求めての3年間に及ぶ申請手続きは、経済面をはじめ諸々の要件を満たすための多大な努力を要するものでした。認可に関わった全ての方たち、そして私たちを導いてくれた力に、あらためて感謝したいと思います。
2012年1月、高等部設置が神奈川県知事によって正式に認可されました。12年間一貫の認可された学校という、東京シュタイナーシューレが誕生して以来の希望が、ここに実現しました。2011年3月11日の大震災を経て、時代と社会の中に、画一性から多様性へ、一極集中から生きたつながりへと変化する価値観が生まれています。子どもと人々の幸せが何より大切にされる未来のために、シュタイナー学園は、小さな一灯をともし続けたいと思います。
新校舎完成
少しずつ地域に根付いていく中で、校舎南側の土地に新校舎を建築。オイリュトミー室と2教室からなるこの校舎は、形・色・材質などにシュタイナー教育の理念を体現する工夫を凝らしました。
高等部設置
初・中等部が学校法人となった後も、高等部はNPO法人という困難が続きました。いくつもの経緯と多大な努力の末、旧吉野小学校廃校舎を借りて高等部が設置されました。12年一貫の認可された学校というこの大きな希望が実現したのは、東京シュタイナーシューレから数えて25年目のことでした。
シュタイナー学園沿革
- 1987年
- 1年生1クラスの東京シュタイナーシューレが新宿区大久保に誕生
- 1988年
- 2学年になり早稲田のビルに引っ越す
- 1993年
- 三鷹市の一軒家に移転
- 1997年
- 手狭になり会社の独身寮を改装して校舎に
- 2001年
- 中学生クラス開始
- 2001年 11月
- NPO法人東京シュタイナーシューレとして東京都から認証を受ける
- 2004年
- 藤野町に移転 学校法人シュタイナー学園開校
- 2004年 11月
- 学校法人シュタイナー学園初等部・中等部設置認可
- 2005年 4月
- 神奈川県藤野町(現相模原市緑区藤野地域)にて、初等部・中等部開校(名倉校舎)
- 2009年 9月
- 名倉校舎に隣接して、新校舎竣工
- 2012年 1月
- 高等部設置認可
- 2012年 4月
- 高等部開校(吉野校舎)
- 2018年 3月
- シュタイナー保育園とねりこ子どもの家開設 [企業主導型保育事業]
- 2019年 3月
- シュタイナー保育園おひさま子どもの家開設 [企業主導型保育事業]
- 2019年 4月
- 学童クラブ「キンダーハウス」開設