2023.05.24
「聴く」力を育む
学校法人シュタイナー学園 ニュースレター
VOL.158 2023.5.24
世界中のシュタイナー学校にとって、音楽活動は呼吸のように欠かせないものです。この学校でも、特に初中等部の時に多くの音楽体験がありますが、その内容には少し特徴があります。一般的な音楽の授業と同じように楽曲も学びますが、加えて「響きの楽器」等を用いた即興演奏を多く行います。響きの楽器とは、鉄・銅・木等でつくられた素朴な楽器です。そっと打ち奏でると、素材そのものの響きが広がります。
即興演奏に楽譜はなく、教員あるいは子どもたちが、その場で音楽を創っていきます。低学年では、教員が決めた秩序に則って奏でていきますが、学年が上がるにつれ、子ども自身が即断していく場面が増えていきます。
けれど、即興演奏が「音楽」となり得るには、どうしても必要なことがあります。「聴く」という心の営みなしには、それは「音楽」にならないのです。少し妙に感じられるかもしれませんが、このことは、日々の授業の中で本当によくわかります。表面的には静かでも、静けさのない場もあり、そこでは不思議と「音楽」は生まれず、ただの音の集まりで終わってしまいます。そんな授業の後は、教員は反省してどうしたら聴かれる空間が生まれるのか考えをめぐらすことになります。反対に、皆が聴いているとその空間は変わります。空気がしんとして、音の集まりに「音楽」が立ち現れます。音楽は聴かれることによって「音楽」になることを知る瞬間です。私たちの音楽授業が目指しているものを一言で言うならば、「聴く器官の養成」(アウディオペーデ)だと言えます。
即興演奏には、道徳の全てがあると、私は感じています。自分が先陣を切る、相手にゆだねる、調和する、調和を破ってより大きい調和へ向かう…。それらを瞬時に判断して実行する力を要します。次々にやってくる決断を自在にできるようになったら、私たちは自由です! 日々の即興演奏の中で、子どもたちは仲間と共にその力を耕しています。そして、今何を決断すべきかをつかむには「聴く」行為がどうしても必要です。
4年生のある日の授業、もはや楽器も登場しない課題が行われました。ひとりの子どもと教員が向かい合い、大きなシルクの両端を持ちます。腕の動き、足の使い方、動くタイミング全てを私のする通りにしてねと伝え、二人で息を合わせてシルクを上方に振り上げてアーチをつくります。それがゆっくり音もなく降りてくるのを皆が見ています。しんとした静けさが生まれます。子どもたちは音のない空間に、確かに何かを聴いています。
シュタイナーの講義録(※)のひとつにこんな一節が記されています。「音楽的なるものとは何でしょうか。音楽的なるものとは、聞こえないもののことです! 聞こえるものは、決して音楽的ではありません。」音は音楽的ではないなんて…! けれど、「音楽」たらしめるものが何かを深く掘り下げるなら、この言葉にハッとせずにはいられないのではないでしょうか。
8年生になると、即興演奏のための時間はありません。けれど勉強で疲れ気味の子どもたちに「響きの部屋」が行われることがあります。音楽室に寝転がり、教員が時間をかけてそれぞれの響きの楽器を奏でていくのを聴くのです。中には、深く眠ってしまって驚いたという子どももいます。「響きの部屋」について書かれた作文の一部を挙げてみます。
「シンバルは静かな水面に一滴のしずくが落ちて水輪が広がるような音で、その空間の空気を一気に変えてしまう不思議な音です」「頭が緩んで押しつけられていたものから解放される。次第に体が緩んでくる…さいごにシンバルの音が響いて目を開ける。気がつくと何とも幸せな感覚で満たされている」「音の響きはその場を平和にしてくれるものだと思う」
世の中は物に溢れ、情報に溢れています。そのことに私たちは知らずしらず疲弊しているのではないでしょうか。おそらく子どもたちも同じでしょう。自分の考えを手放し、相手の話にただただ聞き入ることで、自分自身も深く癒された経験はないでしょうか。たったひとつの響きに耳を傾けるとき、私たちは自分から解放されます。そして深い部分で満たされます。「聴く」力を血肉にすることは、過多の時代を歩む私たちに何か大切なものをもたらしてくれるように思います。新しい時代を創っていく子どもたちの糧となることを願い、これからもこうした音楽体験を重ねていきたいと思います。
※『音楽のオイリュトミー講義録 見える歌としてのオイリュトミー』ルドルフ・シュタイナー 松山由紀訳 涼風書林
ライター/教員 石代雅日