2018.07.04
みんな純朴で、天真爛漫そのものといった感じでしたね
卒業生コラム 第14期生 高野翔悟さん(前編)
【高野翔悟さん】
1993年アメリカ、カリフォルニア州のサンフランシスコ生まれ。シュタイナーシューレに1年生から入学し、シュタイナー学園として藤野移転後も9年生まで在籍。私立高校を経て、東京外国語大学東南アジア語課程ビルマ語専攻に現役合格し、2年間の休学を経て2018年3月に卒業。現在はフリーランスで杉玉クリエーターや焚火を囲むイベント、熾し火を主催。2018年3月に東京外国語大学を卒業したあと、旅をしながら、自然と人間社会のよりよい関係性を模索しています。そんな高野さんにシュタイナー学園での生活や将来の夢についてお話しを伺いました。
高野さんとシュタイナー教育との出会いについておしえてください。
私が4歳の頃まで両親がサンフランシスコにいたのですが、助産師さんからシュタイナー教育のことを聞いたそうです。日本に帰ってきてシュタイナー幼稚園に通い、オイリュトミーなどを体験したのを覚えています。シュタイナーシューレに入学するために三鷹に引っ越しました。6年生の時に藤野に移転し、そのままシュタイナー学園に入り、9年生まで通いました。
三鷹時代はどんな思い出がありますか?
低学年の間、野球は推奨されていませんでしたが、近所の子と野球をやったりしてのびのびと遊んでいました。私たちのクラスは人数が多かったので、中庭にある一軒家が校舎でした。算数や編み物などの手仕事も好きでしたが、その一軒家で遊んでいたことが一番記憶に残っています。クラスの子たちは私も含めてみんな純朴で、天真爛漫そのものといった感じでしたね。
藤野に移転するとき、どう思いましたか?
特に違和感はなかったですよ。当時生徒は22人いたのですが、三鷹に残る子もいて、半数弱の男の子が抜けて、その代わりに藤野で新しい子も入ったのでクラスの雰囲気にちょっとした変化があったかな。親の仕事もフリーのカウンセラーなので、特に困ることはなかったようです。藤野の芝田地区に住んでいたので、どっぷり藤野という生活でした。6年生くらいになるとテレビやラジオといったメディアにたいする憧れも出てきました。僕の家庭はシュタイナーの考え方を強く日常生活の中にも反映させていてデジタル機器もあまりなかったのですが、隠れてゲームをしたりと、ちょっとした反抗もありました。
正義感や倫理観が自分の中にあり、いわゆる、『僕はどう生きるべきか』といった問いを持つようになったのもこのころです。友達や先生にひたすらそんなことを話していました。
藤野に移転した6年生という時期は、思春期真っ只中ですね?
なんで学校に行くのだろう?世界ってなんなんだろう?とか、哲学的に問うことがはじまりました。友達とも、通学路でずっと話していましたが、芳しい返事はもらえませんでした。孤独感みたいなものもあったのかもしれません。この問いは自分の中のアイデンティティとして、今もずっと持ち続けているものです。
シュタイナー教育の影響でしょうか?
考える力を養うということの延長に哲学的な問いがあり、そういう意味でシュタイナー教育を受けてきたことと無関係ではないでしょう。あとは、よくわからない正義感もかなり強くあります。弱いものの存在が気になってしまうんです。身体的に言語的に性別的にいろんなレイヤーで弱者は存在しますからね。ただ、これがシュタイナー教育によって育った感覚なのかはわかりませんが。
中学生になってからはいかがでしたか?
中学からは、授業のこともよく覚えています。先日亡くなった不二陽子先生の国語の授業が一番印象的です。他の生徒も、不二先生の授業は心に残っていると思います。
担任の木村先生は、まとっている雰囲気がとても柔らかくて、とらえどころはあまりないのですが、強烈なこだわりが芯のほうにはあるというタイプの先生でした。僕は数学や英語はそれなりに得意だったので、知識的な勉強に関して劣等感を感じることはほぼありませんでしたが、自分がうまくできないと思ってしまう科目に関しても、評価をくだされていると思ったことはまったくなかったですね。
高校はシュタイナー学園ではなく、私立に通ったのですね?
部活でバドミントンを続けていたので、ちゃんとスポーツをしたいというのと、藤野でずっと守られた生活だったので、一度外の世界を見てみたかったという思いがありました。高校はマンモス校で15クラスもありました。すべてが新しいことばかりで、一年目は好奇心で一杯でしたね。
テストの点数などはよかったと思いますが、慣れてくると点数だけで評価されるような教育の在り方などに疑問も持つようになりました。また、同級生も授業内容や社会問題に対して突っ込んで考えるというような姿勢はあまりなかったことも違和感としてありました。自分がシュタイナー教育という教育を受けていたということを次第に客観的にとらえるようになっていきました。
友人との価値観の違いを、どう乗り越えましたか?
自分の価値観が絶対的に正しいわけではないということを自分の中に落とし込むということをしました。これいいな、って感じるポイントってみんな違うじゃないですか、だから、その違いというのを一回メタ認知してみようと。そのうえで、逆にどこに共通認識の土台があるのかを考えるようになりました。また、同時に言葉に頼りすぎるコミュニケーションに限界も感じるようになります。共通認識の土台って言葉だけじゃない。雰囲気とか一緒に過ごした時間とかそういうことを言葉で説明することに頼っていると見逃すこともあるし、自分も辛くなると思うのです。だから時々、言葉じゃないところに自分を置いて立って、そうやって価値の対立を考えるようになりました。(それでもお喋り偏重でしたけどね笑)。
言語に限界を感じるということでしょうか?
卒業論文を書いている時に思ったのですが、ひとつの言葉だけでモノが定義されて、決まってしまうのが、悲しいのです。例えば、赤ちゃんはグラスに入っているビールをただゆらゆらしている黄色(っぽい)液体としてみていますよね。大人になってもグラスにはいったビールを、一体これはなんなんだろうという思いを持って見ることも可能で、これはグラスで、これはビールであるというだけでは悲しい。
感受的な多様な受け取り方がなくなっていくと、言葉にされたものだけでなく、言葉にされないものも含めて、想像力の限界が出てくると思うのです。ふにゃふにゃ言っているだけでも何かは伝わるし、言葉の意味だけでなく音でも何かは伝わるし、コミュニケーションできないわけでもないですよね。動きや身体運動、総合芸術でもいいと思うのですが、感覚的なものが必要だと思うのです。言葉で説明しきった気持ち良さがあることが基本になりますが、言葉と感性の両方が混じり合った感覚も大切だと思います。
外語大での大学生活は順調でしたか?
高校の担任の先生に海外に行きたいと行ったら、外語大を受験すればとすすめられました。ちょうどミャンマーが民主主義に舵を切るということで、日本企業の進出が騒がれるなかで、僕はなんだか違和感があったんですね。それはメディアの報道が明らかにミャンマーという国を市場や労働力としてみているような報道の仕方をしていたから。だから、現地の市井の人々の生の声を聴いてみたいということでビルマ語学科に入学しました。
他にも、農業系のサークルに入ったり、モバイルハウスを作ったりと、課外活動も結構してましたね。言語学習はあまり向いていないということもあり、あまり真面目な学生ではなかったですが、外大に入る動機の一つでもあった、立場の弱いものに寄り添うという意志はずっと持ちつづけています。
大学1、2年の時は環境保護活動をしていて食と社会をめぐる考え方など議論する機会も多かったのですが、だんだんと言語的な議論だけでも物足りなくなってきました。かなり哲学的に悩みすぎて、このままだとよくないなと思って、2年生を終えた後、旅に出ました。最初は沖縄から、ヒッピーと交流したり、ラブアンドピースな感じでバックパッカーの生活をしました。その後ホテルで仕事をしながら、朝は海で顔を洗ってモリで魚をついて、夜はギター弾く毎日。それで救われて、人生超シンプルに考えてもいいのかなと思いました。まさに感覚的に生きることの楽しさみたいなのを全身で感じていた時期でしたね。
学生生活や言葉に対する限界を感じた高野さんは、シュタイナー教育で培われた感性を取り戻すために旅に出ることになりました。後編では大学生活のことや、将来の夢についてのお話を伺います。
ライター/越野美樹